昭和41年11月12日 夜の御理解
例えばお客さんがある。お茶をお持ちになってます。立派な茶器、茶器立派な良いお茶を、まあ入れましてもそれにお盆が汚れておりましたり、かけておりましたりしたお盆で出したんでは、折角のその良いお茶も、その良いお茶碗も台無しになってしまいます。私達の信心にもそういうようなものがありはせんだろうか。お盆だけは立派だけれど、お茶がつまらないとか。お茶は立派だけれども、ね、茶器は立派だけれども、お盆がかけておるような事はなかろうか。
まあそれで台無しになる、というだけならよいけれども、結局それではお客様に対しても失礼に当たる。そう言う様な信心がとりもなおさず神様に対する所の御無礼になる。教祖様が本当にあれも足らい、これも足ろうておる信心に進ませていかなければならん。それには何時も自分というものをです、ではなかろうかそうではなかろうか、はあ是が欠けておったんでは、是が欠けておったんでは、折角の信心を頂いておる者の値打ちはないと、そのかけておる所を、本気で一つ行じていかなければいけないですね。
どうぞ。